第1章 モラルは進化するか
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心しておいたほうがいい。人びとがたがいに協力を惜しまず、共通の利益のために無私になれる社会を作ろうとするとき、生物学的な性質からの協力はまず期待できない。私たちは生来利己的なのだから、寛大さと利他主義はあとから教え込まなくてはならないのだ。 (リチャード・ドーキンス『利己的な遺伝子』) 私たちの卑劣さは人間がサルだった時代の遺物で、親切さは人間だけの特徴だとどうして言えるのか?この「気高い」特徴についても、どうしてほかの動物とのつながりを考えようとしないのか? (スティーブン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来』) ハンディキャップを持って生き抜く
彼女には両手両足の先がない
モズの先天的な奇形は農薬の影響と考えられている
モズが生き抜くことができたのにはいくつか理由がある
餌付け
モズは特別扱いで餌をもらっているし、他のサルと取り合いになったときは飼育係が助っ人になってくれる
道徳性のことに考えがいくようになったのは、古生物学者の話を聞いてから ネアンデルタール人や初期の人類にも、体が極端に小さかったり、手足が機能不全だったり、ものを噛む能力が欠如したりという障害はあったが、それでもおとなになっているケースがままあるという ハンディキャップがあったり、知能の発達が遅れていた者は、社会にとっては重荷だったに違いない
これは進化の途上で共感と道徳性が初めて出現した例と言っていいだろう モズが生き延びている事実も道徳性の実例ではないか?
もちろん、地獄谷のサル達は人から餌をもらっているし、モズはそのうえ特別扱いを受けている
コミュニティが積極的に支援行動を起こすことを条件だとすれば、モズの例はたちまち除外される
他のサルたちが助けの手を差し伸べた光景は一度も目撃されていない
シャニダール人とロミト人をめぐっても、まったく同じ議論が交わされている
人類学者のK・A・デトワイラーは、シャニダール人もロミト人も恵まれた環境にあり、障害を持つ者が少しぐらいいても、食物を十分に分け合うことができたのだろうと指摘する 逆にハンディキャップを持った者も、薪を集めたり、赤ん坊の世話をしたり、料理をしたりして、それなりにコミュニティに貢献していたかもしれない
さらにデトワイラーは、ただ生き延びることと、相応の扱いを受けることの間には大きな差があると主張する
知能の遅れた者に石をぶつけたり殴ったり、あざけったりしてみんなで喜ぶ文化もあれば、小児麻痺を患った者が特別扱いを受けない文化もある 小児麻痺の女性が赤ん坊を背中にくくりつけ、四つん這いで這っていたという例が報告されている
西洋社会でも、劣悪な環境の精神病院があったり、精神病患者を鎖で縛り付けていたのは遠い昔のことではない
障害を持っていた旧人もモズのように生き延びることができたのは、旧人たちの間に道徳性があったからだろうか
旧人の化石とモズの共通点、相違点をはっきりさせなければならない
ハンディキャップを持つ者への寛大な態度は、どちらにも解釈できる
モズの場合は、明らかに群れの一員として受け入れられており、そのおかげで生きることができた
1991年の春、地獄谷のニホンザルの群れは大きくなりすぎて2つに分裂した
ニホンザルなどのマカクは、社会の屋台骨である母系階層性に従って群れが分かれていく 血縁にある雌の結びつきが強く、非血縁の雌と対立する。その結果、母系のつながりを基盤にした社会秩序が生まれる
地獄谷の場合、支配的な地位にある数頭の雌とその家族が一つの群れを作り、それより下位にいた雌たちと家族が別の群れを作った
モズと子どもたちは、第二の群れの低い地位に組み込まれた
霊長類学者の田中伊知郎によると、群れの分裂でモズは深刻な事態に直面したという 優位な第一の群れが、公苑の餌場の所有権を主張し始め、他のサルを寄せ付けなくなった
このときモズは興味深い行動に出た
雌は血縁同士のつながりを一生保ち続けるのが普通なのに、モズは子どもたちを放って、第一の群れの雌ザルたちに言い寄りだした
時折攻撃を受けながらも、モズは群れの隅の方にいて、19年前に共に育った同年代の雌への接触を試みた
やがて群れの雌たちもモズの存在を受け入れ、お返しにグルーミングし始めた
社会とのつながりを築く能力、そうした関係のなかで安全を手に入れようとする傾向は、一人より集団の方が生き残る可能性が高い種の自然淘汰の産物 社会ではすべての構成員が集団に貢献するとともに、そこから恩恵をもらっている
ただしその度合はいつも誰もが同じとは限らない
モズの例からわかるように、霊長類の群れはギブ・アンド・テイクの契約を基本にしているが、協力するときには、存在価値のほとんどない個体も受け入れる余地がある
そうしたところで迎える側の負担など取るに足りないが、排斥するほうが現実的だということを考えると、やはり注目に値する行動だ
一番順位の高い母系一族のメスが、ファザ71という地位の低い雌と喧嘩を始めた 喧嘩をしかけた雌とその応援団(姉妹、兄弟、姪)が派手に鳴きわめいたので、その群れの最高位にある第一位雄が現場にやってきた
ファザ71は木の上に登っていたが、第一位雄がやってきて彼女をぶったので、10メートルほど下の地面に飛び降りなくてはならなくなった
雌たちの攻撃から逃れるために、ファザ71はしかたなく、凍りつくような流れの速い川に飛び込んだ
攻撃側の雌たちはファザ71をなかなか岸に上げさせようとしない
ファザ71の家族は助けの手を差し伸べることもできず、川向うのダムの方へ逃げてしまった
冷たい滝の下に小さな砂地がなかったら、ファザ71は溺れ死んでいただろう
このやりとりは全部で30分に満たなかったが、ファザの一族が群れに復帰したのは一週間以上もあとのこと
さらに彼女たちが、支配的な母系一族の前でも緊張せずにすむようになるには、何ヶ月もかかった
生物学から道徳を見れば
人間の道徳性は、突き詰めれば社会に受け入れられることが目的
人間のコミュニティは、おしなべて道徳的なコミュニティである
人間の道徳性は、霊長類に広く見られる社会統合のパターン、個体が群れに馴染むために必要な適合行動の延長かもしれない 哲学者の中には、道徳をもつのは人間だけだと考える人もいる
たしかに「高級な」道徳性に関しては、そう言えるかもしれない
抽象的な道徳規範は、現実世界への応用とはほとんど関係なく、数学のように研究し、議論することができる
しかし、児童心理学者に言わせると、道徳の理由づけの根底にあるのは、罰が怖いとか、ルールに従いたいといった単純な感情だけだという
人間の道徳心は社会的なレベルから個人的なレベルへと発達していくのが普通だ
社会における自分の立場を気にかけるだけ→やがて自発的な良心
最初の段階だけなら、人間以外の動物も到達できそうだが、それより高度な理性が求められるカント哲学的な水準となると、これは見極めるのが難しい
遠くを見つめたり、頭をかいたり、頬杖をついたりして何かを表現しようとすることもあるが、これらは類人猿もよくやる仕草 高尚な概念を好む社会科学者や哲学者が表玄関から入るとすれば、同じ建物でも裏口から入ろうとするのが生物学者
社会生物学者E・O・ウィルソン「倫理はひとまず哲学者の手から取り上げて、生物学の目で見るべきときが来た」 私自身は、逆に生物学にばかり依存するのもどうかと思う
人類前史において適応度の低い個体が生き延びた記念すべき証拠としては、障害のためにろくに歩行できなかったと思われる旧人の化石を引き合いに出せば、納得がいくだろう
人口は食料供給の伸びは上回る勢いで増えていくが、やがて死亡率が高くなって減少に向かうというのが彼の仮説
マルサスを読んだダーウィンの頭のなかで、生存競争という原理がはっきりと形になった この優れた洞察はマルサスの政治観にとって重荷となった
貧者に救いの手を差し伸べれば、彼らの寿命を伸ばし、子孫を増やすことになる
恵まれないものは死に絶えるという自然のプロセスに反する行い
とうとうマルサスは、人間にない権利があるとすれば、それは生存権であり、こればかりは労働であがなえないと主張するようになった 社会学、政治経済学、生物学を統合したスペンサーの理論体系によると、自己利益の追求こそ社会の原動力であり、強者は自分の利益を求め、弱者を踏み台にして進歩していくという
この理論はごく少数の幸福な者が莫大な富を独占していた当時の現状を正当化するのに都合がよく、アメリカでもたちまち受け入れられた
使い方が正しいかどうかはともかく、進化論は色々な場面で応用されている
だから自然淘汰と聞いて、無制限の開かれた競争と同義語だと思うのも無理はない 道徳性も自然淘汰に反するように見えるけれど、やはり自然淘汰の産物の一つ
このことを説明するために、社会生物学、すなわち人間を含む動物の行動を進化論的視点から考える学問が登場した 自分を犠牲にして、あるいは自分が損をしても他者を助ける行動は、動物のあいだで広く見られる
鳥が敵の接近を鳴いて知らせれば、警告を発した当の本人が敵の注目を集めてしまう ミツバチなどの社会では生殖能力を持たない構成員がいる カケスは、卵を暖めるのに忙しくて餌を取りにいけないつがいに、親戚たちが餌を運び、口に押し込んでやるおかげで、多くの卵をかえすことができる イルカは傷ついた仲間が溺れ死んでしまわないように、下から支えて水面近くを泳がせる この疑問に対して満足の行く説明がなされたのはやっと1960年代から70年代に入って
近親者の生存と生殖がうながされる場合に、協力傾向が見られると考える
遺伝子レベルで見れば、自力だろうが助けられようが、遺伝子が増殖することに変わりはないからだ 短期的には損になる行動でも、助けをもらった側がお返しをしてくれるのであれば、長い目で見て利益になるというもの
ウィルソンが書いた『社会生物学』
社会生物学はアメーバのように、他の学問領域に押し寄せて食べ尽くすだろうと自身たっぷりに書かれている
生物学以外の行動学者が、この傲慢な併合の試みに憤慨するのは当然として、ウィルソンの本は生物学の領域でも摩擦を引き起こした
理論は基本的に同じなのに、社会生物学者ではなく行動生態学者と呼ばれるのを好む人もいた
社会生物学者はそれ以前の動物行動の研究を「古典的行動学」としてさっさと片付けてしまった
社会生物学の誕生はもちろんとても重要なことであり、これによって生物学者の動物行動に対する考え方はがらりと変わった
しかし、社会生物学の新しい理論はあまりに説得力があり、しかもすっきりしていたために、一部の学者は遺伝子の影響を極端に単純化して考えたがるようになった
社会生物学のある一分野など、食うか食われるかというマルサス的な世界観に囚われすぎて、道徳的な行動を受け入れる余地がまったくない
そういう分野ではハクスリーにならって、道徳性を対抗力とみなし、人間性に不可欠な要素というより、われわれの獣的な性質に対する反抗と考える
ヒトは進化したエゴイスト?
ここのチンパンジーたちは、どんな家族よりも固い絆で結ばれていた
私が観察したかぎり、ジョージアはヤーキスが思い描いたタイプではなかったようだ
ジョージアは食物をなかなか他の者に分けない
ジョージアの娘であるケイトとリタでさえ食物にありつけない
ヤーキースの頭にあったのは、順位の高い老雌のマイのようなチンパンジーだったにちがいない 自分の子供だけでなく、老若を問わず血縁にないものにも食物を分けてやる
あるいはヤーキースは、おとなの雄を想定していたのかもしれない
チンパンジーの雄は、こと食物の分配に関しては驚くほど寛大
分け合うことと、独り占めすることは人間社会でははっきり区別されており、それが様々な意味を持つ
遺伝子を絶対君主とみなす社会生物学の一部の考えでは、そういう区別が消える
人間を含めたすべての動物は利己的
この立場からすると、マイとジョージアの違いは自己利益を追求する方法だけということになる
ジョージアはあからさまに強欲ぶりを発揮する
マイは将来の見返りを得るために、友人づくりに励んでいる
どちらも自分のことしか考えていない
だが、そんな皮肉な視点にはとても頷けない
遺伝子中心の社会生物学は、生存や生殖の問題を個体ではなく遺伝子の立場から見ようとする
家で待つ子どもに食物を持って変える遺伝子というのがあって、それによって同じ遺伝子を受け継ぐ個体の生存が可能になる
極端なことを言えば、遺伝子は自分の複製をひいきにする
遺伝子の自助努力を表現するために心理学的な用語を使った
だが、遺伝子に自意識があるわけではないし、利己的になるような感情があるわけでもないから、利己的な遺伝子といってもたとえに過ぎないという人もいるだろう
ドーキンス自身が遺伝子の擬人化を警告していたにもかかわらず、利己的な遺伝子の持ち主まで利己的だという連想が広まり始めた
哲学者メアリー・ミドグレーは論文のなかで、社会生物学者が利己的な遺伝子のたとえに警告を発するのは、マフィアが主の祈りを唱えるようなものだと批判している ドーキンスはこれは比喩ではなく、遺伝子は本当に利己的なのだと弁解に努めている
利己的をどう定義しようが自由だというわけだ
しかし、ドーキンスはある領域の用語を借用し、それを非常に狭い意味で定義しなおして、まったく無関係な領域に適用したのである
そんな手順が許されるのは、2つの異なる意味が絶対交わらない場合だけ
混乱した定義を一度整理して、利己的な遺伝子という比喩は直接的にも間接的にも、動機や感情や意志とは全く関係ないことを明言するべきだろう
もっとも道徳性の進化に関しては、俗称的な意味に進化的な意味をかぶせたのでは議論する意味がない
人間が道徳について判断するときは、かならず行動の背後にある意図を見ている
しかし、意図の有無などといった区別は、行動の結果にしか興味のない社会生物学では意味をなさない
倫理問題を扱う上で一番重要なとっかかりを否定したことで、一部の社会生物学者は道徳性の解明を諦めてしまった
ドーキンスは、純粋かつ偏見のない利他性など自然には生まれないのだから、意識して身につけるべきだと説く
「この地球上で人間だけが、利己的な複製者の圧政に反旗をひるがえすことができるのだ」
自然は道徳的に中立だというハクスリーの主張ではもの足らず、ウィリアムズは「はなはだしき不道徳」「道徳の破壊」という表現を使った
「罪深い、あるいは倫理に反すると考えられてきた性行動のほとんどすべてが……自然界では頻繁に見ることができる」
しかし我々が動物に審判を下すのは、川の流れや素粒子に対して是非を問うようなものではないだろうか?
動物たちは独自の行動基準、ひょっとすると倫理基準まで持っているかもしれない
しかしウィリアムズは、動物の行動を彼らの基準に照らし合わせるのではなく、たまたま自分が属している人間世界の基準と比較している
基準に達していないために、ウィリアムズは人間の本質を含む自然界全体を敵と見なした
ここでも俗称的エゴイズムが、進化プロセスを述べる文章に紛れ込んでいる
「敵は手強く、またしつこい。何十億年も続いてきた利己的な淘汰を克服するために、あらゆる力を集めなければならない」
彼らの立場の底流にあるのが、プロセスと結果のはなはだしい混同
驚異の自然淘汰は無情だと結論付けなければならないのだろう 人間もその他の動物も、純粋な愛や共感、気遣いを持っている
いずれこの事実は、遺伝子の自己発展が進化を進めてきたという発想と上手く調和していくに違いない
人間は本来堕落した存在であり、その性質を克服するために努力するというイメージは、原罪思想に起源を持つカルバン主義的なもの 人間の根底にある本王を制御し、断念しない限り、近代社会を建設することはできないというのがフロイトの主張
つまり私達は純粋な生物学の理論ではなく、宗教や精神分析、進化論がひとつになって、人間のありかたは基本的に二元的だとする思想を考えていかねばならない
遺伝子至上主義の社会生物学者にしてみれば、彼らなりの万物の理論に例外を設けるのは我慢ならない話に違いない
利己的な遺伝子で道徳性が説明できないのは、理論を単純化しすぎた当然の結果
今はこうした単純化から離れて、様々なレベルで営まれている生命システムを統合し、総合的に説明しようとする試みに向かいつつある
全米科学基金が最近設立した特別委員の言葉「生物科学は分析的な還元主義から離れ……生物学的体系を切り離して各部分の動きを見るのではなく、そうした部分をひとつにまとめて、全体の働きをとらえようとしている」 ガイア(生物圏を一つの有機体とみなす考え)といった大仰な理論を持ち出さなくても、現在の科学が成熟の段階を迎えていることに異論はないだろう 改善された新社会生物学でも、動物のすべての行動は生存と生殖を目的とすることに変わりはないが、状況を考慮に入れて最善の行動を選択しているとされる
遺伝子中心の社会生物学は世間に広く知られている
特に生物学以外で進化論的なアプローチに注目し、一部の学問領域では、いまだに根強く支持されている
社会生物学が動物を特徴づけるときの言葉使いには、思わず笑いたくなるものが多い
動物は「意地悪く」「強欲で」「凶暴な」行動をする「搾取者」であり、「悪意に満ちた」「詐欺師」という表現は最新の論文にも見ることができる
たとえ動物が寛大で利他的な行動をしたとしても、科学者はその種の表現を引用符でくくり、ロマンチックでナイーブな印象を与えないように努める
しかしそれだと論文が引用符だらけになるので、本来はいい意味の性質にも否定的なレッテルが貼られることになる
たとえば「血縁関係への愛着」は「縁者びいき」の表現で呼ばれることもある 研究者にとって、自分が利他的と表現した行動が、別のもっと除災な研究者によって実は利己的と言われるほどの屈辱はない。研究者はそれを恐れるあまり、自己犠牲にとれるような行動に利己的な動機を持たせるべく、紙幅を費やすことになるのだ。
チンパンジーの行動を研究している者として、私も似たような経験がある
敵対していた者同士が友好的な関係になることを「和解」と呼ぼうとして、学界の抵抗にあった 「友好的」も「親和的」と遠回しに言う方が受け入れられやすい
「和解」という表現はチンパンジーを擬人化しすぎではないかと質問されたことは、一度や二度ではなかった
攻撃や暴力、競争に関係する表現はまったく問題にならない
キスによる和解は、「唇どうしの接触を伴う闘争後の相互行動」
バーバラ・スマッツもヒヒのおとなの雄と雌のあいだに見られる親密な関係をそのまま「友情」と表現して同じような抵抗に直面した ダブルスタンダードがある
動物にライバルがいることは微塵もう違わないが、友達が作れるとは思わない
感情的な結びつきを表す中立的な表現として使い始めた絆(ボンディング)という用語も、いずれタブーになるだろう 皮肉なことにこの言葉は一般に広まり、「母と子の絆」「男同士の絆」というように、本来は避けねばならない意味で使われている
動物、それも人間に近い動物は感情の幅が広いし、関係の作り方も様々
それに見合った用語を準備しないと事実を正確に反映することはできない
動物は敵も作れば友達も作るのだし、相手をだますこともあれば正直にもなれる
人間と動物を意味論で区別していると、往々にして根本的な共通点がぼやけてしまう
ある日、チンパンジーのコロニー全体が何となく老雌マイの周辺に集まったとき、おもしろい感情表現が見られた
どのチンパンジーもマイの背中をじっと見つめ、なかにはマイの背中に指で触れて、臭いをかいでいる者もいる
マイは足を開き気味にして中腰で立ち、片手を足の間に置いていた
するとよく気のつく年重の雌が、マイのまねをして同じように股ののところに手をあてた
それからおよそ10分後、マイは体をこわばらせ、足を深くふんばって赤ん坊を産み落とし、両手で受け止めた
集まっていたほかのチンパンジーのあいだにどよめきが起こる
マイの親友のアトランタが叫び声をあげながら姿を表し、あたりを見回して、すぐ隣にいた二頭を抱きしめた
そのうち一頭が鋭く吠える
マイは隅の方に行って赤ん坊の汚れを落とし、後産をがつがつと食べた 翌日からアトランタは、喧嘩のときにマイを必死にかばうようになり、数週間にわたってマイの毛づくろいを熱心にする姿が見られた そんなときアトランタは、マイの元気な雄の赤ん坊をじっと見つめ、そっと体に触れたりするのだった
マカクの出産は何度か見たことあるが、他の者は子供を産む母親に近寄らない 出産をみても、興奮するわけでもないし、興味を持っているそぶりもない
マカクが積極的に興味を示したのは、胎児を包む羊膜が破られて赤ん坊がきれいになってから マカクも新生児には興味津々だが、チンパンジーはもっと早い段階から反応を示しており、まるで結果だけでなくプロセスにも関心があるようだった
自ら何度か出産経験のあるアトランタの行動は、感情移入の現れだと考えることができる
アトランタは友達の身に起こっていることを理解し、そこに自分を重ねた
言うまでもなく、感情移入と共感は、人間の道徳性を形作る重要な柱 ギブ・アンド・テイク
木登りが人間の経済活動を可能にしたという
どちらもつかんで離す動きをうまく組み合わせなくてはならないから
カネテッィ説の対比はおもしろいが、もちおんこの2つの間に因果関係はない
もし関係があるのなら、八本足のタコなどは動物界の大商人になっており、手のないイルカやコウモリは商売に参加すらできないだろう
動物にもギブ・アンド・テイクの関係があることが最初にわかったのは実はコウモリ クロポトキンはアナーキストだったが、極論を唱える人ではなかった
クロポトキンが目指していたのは、図らずも自分が受益者の側にまわってしまった罪悪感から、不公平な社会に反旗を翻すことだった
生存競争に直面する動物は互いに助け合う必要があると『相互扶助論』の中で主張した
動物の社会性や親交に注目したのは、クロポトキン一人ではない
同世代のロシアの科学者たちは、進化研究で競争ばかり重視することに不満を抱いていた
ダーウィンは豊かな熱帯地域でインスピレーションを得たのに対し、クロポトキンは19歳のときシベリア探検に出かけている
彼らの発想の違いは、暮らしやすいために生息密度が高くなり競争が激しくなる世界と、生き抜くのが大変で予測もつかない危険に満ちた世界の違いを反映している
生命活動は「絶えることのない乱闘」であり「剣闘の見世物」だとする見方は、ハクスリーが一般に広めたものだが、クロポトキンはこの考えに徹底的に異を唱えた
そのハクスリーも死を目前にした5年後に立場を一部変更し、道徳性こそ人間の唯一の取り柄だと主張するようになっている
それでもクロポトキンはハクスリーの競争原理の代わりに、共同体主義的な原理が働いていると見なした
彼にとっては多くの動物が生き抜き、子孫を増やしていくために苦闘した厳しい自然環境こそが共通の敵だった
もっともクロポトキンの分析には重大な欠陥があり、『相互扶助論』に散見される実例も選択的で、著者の主張を裏付けるには疑問が残る
彼には革命という密かな使命があったがゆえに、自然の営みに勝手に政治的な意図を読み取ってしまい、都合の悪い部分は完全に無視してしまった
「自由な自然界においては、非社交的な性向は発達する機会が与えられず、結果として平和と調和が生き残る」とクロポトキンは書いている
しかしこの文章で彼の念頭にあったのは、自然界で起こることのすべてを、残忍この上ない戦闘で片付けてしまう人たち
この頃のロシアの科学者たちは、生命活動=剣闘ショー説を、イギリス上流階級が自己保身のためにでっちあげた理屈とみなしていた
クロポトキンは、ある種の個体グループ、または種全体の生き残りということで議論を投げかけた
集団淘汰(群淘汰)と呼ばれるこの考えを否定することが、社会生物学が隆盛するきっかけになった 現代の生物学者は、動物が互いに助け合うとすれば、それはすべての当事者やその血縁者に利益があるはずだ、さもなければそうした特性が広まるはずがないと考える
古い考えは完全に消滅するわけではなく、集団淘汰の発想は少しずつ復活しつつある
クロポトキンはとにかく集団の成否が重要だと考えていた
ダーウィンも道徳性の問題を考える時、集団淘汰に傾いている
ある部族が他の部族よりも有利な立場にあるのはなぜかと考えた
世界各地では時代に関係なく部族間の乗っ取りが行われてきた
乗っ取りの成否を左右する条件の一つが道徳性なので、世界全体で道徳基準は上がり、立派な徳を備えた人間の数も増えていくことになる
ダーウィンとクロポトキンが、進化論を研究する上で同じ土俵に上がっていたという印象を持ってはならない
ダーウィンの方が遥かに体系的に、また一貫して自らの論を展開したし、知識量も膨大だった
トリヴァースは遺伝子と行動の関係を単純化してしまうのではなく、情動や心理プロセスといった中間段階に注目した また当事者が提供し、見返りとして得るものを基準に、協力関係をいくつかに分類している
互恵的利他行動は利益を相手に向ける前にこちらが何らかの代償を支払うもので3つの特徴を持つ
1) やりとりされる行為が、受け手には利益になるが、実行者には犠牲を伴う
2) 代償と見返りの間にタイムラグがある
3) 見返りを条件に犠牲を払う
互恵的利他行動が他の協力関係と異なるのは、リスクだらけで、信頼に基づいており、貢献度が足りない個体に何らかの正妻がないと、システム全体が崩壊してしまう点
個体同士が顔をめったに合わせなかったり、誰が何をしたかを確実に追跡できない状況では、互酬的利他現象は機能しない
霊長類に見られるように、正確な記憶力と安定した関係が必要 サルや類人猿は、血族とそうでない者、また敵と味方を区別する 友情の主な目的は相互支援であり、あくまで利害を共有する個体同士が友好関係を築くのが自然
母系階層序列の中でビートルの一家は、ローピー一家のすぐ下に位置している
ローピーとビートルの関係は互恵的利他行動と深く関わっているとされる「類似性の原則」の典型だろう サルの雌同士の関係を数百例にわたって調べたところ、彼女たちは年齢や順位が近い相手を友だちに選ぶ傾向がある
厳然と順位が定まっているマカクの社会では、同ランクの雌が同じ優位者から攻撃を受けるので、劣位の程度が同じ者は足並みを揃えておく必要がある
また、年齢が近い雌は人生の節目節目も一緒になることが多い
共通するものが多いと、そうした雌同士が年代の異なる、また順位の違う雌よりも親近感を抱くのは当然だ
地獄谷野猿公苑のモズが同年代の雌たちに近づいたのも、類似性の原則を説明するもの
もちろん、例外がないわけではない
ウィスコンシンでアカゲザルのグループを観察していたとき、第一位雌がランクの低い雌に近づき、グルーミングをしたいという身振りを見せた
そして延々とグルーミングしたあと、その雌の一家に混じって眠ってしまった
この珍しい光景は人間にも当てはまる一つの規則を示している
人間の場合、類似性の原則が成立する要素は、年齢や社会経済的な地位に限らない
政治思想、宗教、人種、IQレベル、教育、身体的な魅力、身長なども関係してくる
研究者は様々な次元での釣り合いを調べれば、付き合っているカップルが別れるか、関係が続くかある程度予測がつく
アカゲザルの場合は、こうした釣り合いのルールが協力の見通しにも関係してくる
つまり、共通する習性や利害が多ければ多いほど、仲良くやれるので、ギブ・アンド・テイクの関係が成り立つ基盤もしっかりできる
意識しているかどうかは別にして、アカゲザルは利益につながるパートナーシップが可能な個体を求める
ある個体の利害が別個の利害と競い合うという進化生物学の伝統を考えれば、当たり前とばかりも言えない
クロポトキンは直感から競争一点張りの視点に異を唱え、トリヴァースはそれに確かな根拠を与えたが、彼らの姿勢はもっと理解されるべきだ
同じ種の個体は、共通する利害で束ねられている
動物たちが基本的には相手を殺すような戦いはしないという事実に困惑した彼らは、総力戦には何らかの問題があることを数値的に立証するべきだと言い出した
しかもその際、闘争が及ぼす社会的影響よりも、身体的なリスクにばかり目を向けた
動物たちが「限定戦争」を重んじるのは、お互いのことをよく知っており、また必要ともしているために、良好的な関係を築きたいからではないかという可能性は無視されてしまった
強者が弱者を滅ぼしてしまう種が多いことに疑問の余地はない
だが互酬の世界では、それはあまり賢いやり方とは言えない
どうして攻撃の手が緩むのか、その必要があるのかが問題なのではなく、なぜ協力と競争が共存するかが重要
それぞれの個体は、自己利益の追求とチーム行動のバランスをどうとっているのか?
衝突が起こったとき、社会的なつながりを損ねないでどう解決するのか?
道徳性は進化するのか
人間の高尚な側面を支えているのは堕落した性質であり、文明社会は個人が自尊心と虚栄心を満足させ合う蜂の巣箱だと語っている
ひとつひとつは堕落でも まとめてみると極楽だ
自己利益の追求が全体の幸福に寄与するという発想を諷刺詩に仕立てた
その考えが確固たる地位を獲得したのは、経済学の父アダム・スミスが1776年に『国富論』を発表して、利己社会の基本原理を発表してから 「個人が見えない手によって導かれて、自らの意図しない目的をまっとうする。個人が意図していないからといって、社会には必ずしも悪ではない。個人が自らの利益を追求することで、意図する場合よりも効果的に社会発展に寄与できることも多い」
スミスの言う「見えざる手」とは、要は意図と結果に開きがあるという意味だろう もっともスミスの立場は、そう単純なものではなかった
道徳哲学者でもあった彼は、エゴイズムだけで社会を束ねるのが困難なことを百も承知していた スミスは非利己的な動機を信じていた若い頃の視点に立ち返り、晩年を『道徳感情論』の改訂に費やした この作業を通じて、スミスはマンデヴィルの言う自己愛を否定した
「人は他者の運命に関心を持ち、他者の幸福を自分に必要なものと見なすことができる。たとえそこから何も得られなくとも、他者の幸福を見ることで喜びを感じるのだ」
見えざる手のたとえが説得力を持つのは、ミクロとマクロの現実を同時に表しているから
同じ行動でもレベルによって理由が違う
同じ種に属する個体がお互いに助け合うとき、相互支援の恩恵を念頭に置く必要はない
恩恵が来るまで時間がかかるし、間接的だ
そうしたやり取りは、進化の時間の尺度で見て初めて意味が出てくる
もっとも、こと人間においては意図と結果は必ずしも切り離されているわけではない
結果がすぐに、しかも明白に出るときは、私達は行動の結果を理解できることが多い
協力行動の機能が、競争に見えることだってあるだろう
霊長類の協力関係で最も発達が進み、また一般的に見かける事ができるのは、二頭以上の個体が結託して第三者を打ち負かす連合形成
たとえばチンパンジーでは、既存の支配者を引きずり下ろすために、雄二頭がチームを組む
彼らは勇ましく肩をいからせて毛を逆立て、ライバルの目前で抱き合ったりマウンティングをする
もちろん直接対決になれば、おたがいに助け合う
これが数週間から数ヶ月も続くのだから、文字通り神経戦であり、その間に支配者は勢力を失うこともありうる
クロポトキンなどの理想主義者は、忠誠心、信頼、友愛といった好ましい面でしか協力関係をとらえようとせず、競争の側面は無視する傾向がある
共通の敵が相互支援を促進することを知っていたクロポトキンさえ、その敵が同じ種に属する可能性は都合よく忘れていた
ただし、集団同士の闘争だけですべてが説明できるわけではないとアレグザンダーは指摘する
例えばアリの集団はすさまじい戦闘を展開するが、彼らに道徳体系が存在するとは誰も思わない 解決すべき利害の衝突がないのだから、道徳システムも必要ないのである
道徳性が進化する第二の条件は、グループ内の葛藤
個体の利益と集団の利益が矛盾するとき、特にそれが集団同士が競い合っている時に生じた場合、道徳システムは生まれる
外からの脅威に団結して対抗するために、円満な関係を築き、外に相応の態度を取る必要がある
そこで、キリスト教が唱える道徳原理のひとつである生命の尊厳は、その生命がどのグループ、民族、国家に属しているかによって柔軟に解釈されてしまう
1991年には「クリーンな」湾岸戦争が「客観的正確さ」で遂行されたが、そこでは何万もの人命が失われた
道徳原理はもっぱら自分が属するグループに向けられるもので、外界には適用されにくい(されたとしても公平ではない)
しかしアレグザンダーは、共同体を支える道徳的な柱と、争いや倫理観の衝突は同じコインの表裏だと皮肉な見解を述べている
現代に生きる私達は、前者を高く評価しつつも、後者がしつこく残っていることに戸惑いを覚えているのだ
道徳性進化の条件は2つとも、サルと類人猿に当てはまる グループ間で衝突を起こす種は多く、たいていさほど激しくないが場合によっては残忍そのものになることもある
野生の雄のチンパンジーは、近隣コミュニティの雄を計画的に殺害することでテリトリーを乗っ取ることがある
また、グループ内に衝突や軋轢がないわけではないが、霊長類は非攻撃的な方法で衝突を解決することが知られている
拙著『仲直り戦術』ではそれがテーマだったので、次に道徳性を取り上げるのは当然の流れだろう 私にとって進化という巨大客船がたどる航路は、クロポトキン、トリヴァース、アレグザンダーを組み合わせたもの
さらに私は「コミュニティの利害」という要素も加えたい
協力的で統率のとれたグループは、所属する構成員すべてに利益を与える
それゆえグループに生きる者は社会に気を配り、クモが巣を繕い、ビーバーがダムを維持するように社会を改善し、強化する努力をしなければならない
ところが階層の上層部でしょっちゅう内部抗争が起こっていると、全員の利益が損なわれてしまう
そのため、紛争解決は当事者のみならず、コミュニティ全体の問題になってくる
動物がコミュニティのために犠牲を払うと言っているわけではなく、むしろ社会環境は個人の生存を左右するため、すべての個体がその質に関与している
社会環境の質を高めるために、グループに所属する個体は他の仲間に力を貸し、それが一度にあちこちで起こる
紛争の仲裁や仲介がその例
野外で飼育されるキンシコウを調べた研究者によると、キンシコウのグループはさらに小さなユニットに分かれるという
ユニットはおとなの雄一頭に雌数頭、その赤ん坊で構成される
キンシコウの雄の体格は雌の二倍
ユニットのまとまりには雄の支配力に加えて、雌同士の関係も重要になってくる
北京大学で霊長類を研究するレンメイ・レンは、キンシコウのメス同士の平和的共存に雄が積極的に関与し、雌たちのいさかいはすべて雄が仲裁することを突き止めた 雄は争っている雌を追い散らしたり、あいだに割って入って、喧嘩がそれ以上エスカレートするのを防ぐ
ときには親しみの表情を浮かべて、雌の背中の毛を指でかわるがるすいてやり、雌の怒りをなだめることもある
飼育しているキンシコウのグループで、健康上の理由から雄を引き離したときには、雌の間で凄まじい衝突が起こったという
ところが雄が戻ると、たちまち争いはおさまった
順位の高い個体による「上からの」仲裁は、明らかに「下から」よりもやりやすい
下位の者が仲裁に入ると、かえって緊張に拍車がかかる危険がある
もちろんそういう仲裁もないわけではない
私の知る限りチンパンジーだけ
雄のチンパンジーは衝突がうまく和解に持ち込めなかったときどうするか
数メートル離れて座り込み、おたがい相手の方から動けばいいとばかりにじっと待つ
彼らは落ち着き無く視線を泳がせるが、相手と目を合わせることはしない
この緊張状態を解消してくれたのが、雌の仲裁者
一方の雄に近づいてキス、手で体に触れる、プレゼンテーションをしてから今度は別の雄に歩み寄る
最初の雄は雌の後ろにぴったりくっついて来る(性器をじっと観察していることも多い)が、相手の雄の方は見ようとしない
雌が後ろの雄の方を振り向いたり、腕を引っ張って付いてこさせることもあった
雌の導きで二頭の雄の距離が縮まると、雄たちは彼女のグルーミングを始める
雌がいなくなると、今度は雄同士でグルーミングが続く
やがてあえぎ超えやつぶやき声、唇を立てる音が頻繁に、大きくなっていく
オランダのアーネム動物園で飼育されている世界最大のチンパンジーコロニーではこうした仲裁行動を繰り返し見ることができた
雌が仲介役を果たしてくれれば、対立した雄同士はどちらかが先鞭をつけなくてもまた視線を合わせなくても近づくことができるため、両目が立つ
このコロニーの雌たちは、対立寸前の雄にも近づくことがある
彼らの手を優しく広げさせ、棒きれや石といった武器を「放棄」させる
コミュニティへの関心は、他者同士の社会関係を改善して仲介者自らの利益とすることと言えるかもしれない
人間の道徳性は個人の利害よりも共同体の利害を重んじるが、これはそうした段階への第一歩
2つの利害が切り離されるというわけではなく、ただ個人から集団に、自己中心的な関心から共有するコミュニティへの関心に重点が移る
社会環境の質が大多数の個体に利益を与える以上、コミュニティの参加者が質を高める方向でお互いを奨励し合うのは当然の流れと言える
この奨励システムが発達すればするほど、より重要な共通目標が私的な目標よりも際立ってくる
互酬的利他行動に見られるような個体と個体の直接的な便宜のやりとりではなく、ある行動の見返りが第三者を通じて得られるもの
線路で遊んでいた子供を助けた→村で信頼に足る人物として評価が上がり、その後の付き合いや仕事が有利になるかもしれない
この場合、見返りを与えるのは子供ではなく、コミュニティ全体
モラル社会では、私があなたに何をしてあなたが私に何をするかだけでなく、私とあなたの行為を他の人達がどう思うかも重要になってくる
だからこそアダム・スミスは、社会的な事象を共感と理解を持って判断するために「公正な傍観者」という概念を取り入れた 道徳性進化を考えるときにはこうした外部の関心に大きな役割を与える必要がある
すなわちコミュニティレベルで道徳性の発達を眺めるということ
道徳性の進化理論はダーウィン進化論を基本にしているが、紛争を解決し、社会を構築する方法にも注目すれば、個体だけを対象にするということはなくなる 各個体が社会環境を整備し、自らの努力が他者に与える影響からフィードバックを得ようとするのであれば、社会はまぎれもなく交渉とギブ・アンド・テイクの場になるはず
こうした考え方は「社会契約」の様相を帯び、人間社会を哲学、心理学、社会学、人類学の観点から検討する理論に近くなってくる
進化論的アプローチを水で薄めるようなものだと主張する向きもあるだろうが、議論がこういう方向に進むのは避けられない
道徳性のように高くそびえる山を前にしたら、私達は理論武装して頂上をきわめるか、極端に単純化した発想を抱えてふもとにとどまるしかない
道徳性進化の条件
1) 集団の価値
集団に属しているおかげで食物を手に入れ、敵・捕食者から身を守ることができる
2) 相互援助
集団内で協力や互酬的な交換が見られる
3) 内部衝突
集団を構成する個体が、それぞれ異なる利害を持つ
こうした条件のもとでは、集団内の衝突は個体と集団の利害のバランスを取ることで解決しなくてはならない
衝突は一対一レベルで解決されることもあれば、より高いレベルで解決を見ることもある
1) 一対一レベル
直接の相互扶助や、喧嘩後の和解など、個体同士が一対一で解決する
2) 高いレベル
コミュニティが個体同士の関係に配慮する
和解の斡旋、平和的な紛争解決の仲裁、利他的行動の集団全体での評価(間接的な相互関係)、社会環境の質の向上のための貢献奨励といった形で現れる
最初の2つは広く見られるが、残り2つは人間の道徳システムに限られるかもしれない
動物行動学と倫理学
鳴き声をあげながら飛ぶガンの一団に追いかけられる、飼いならしたカラスを呼び寄せるローレンツの研究方法は、ハトを手に持ってスキナー箱に入れるB・F・スキナーのやり方とは全く対照的 一方は本能を協調して様々な行動を説明するのに対し、もう一方は学習の要素を重んじる 動物行動学という言葉はギリシャ語のエトスから来ている
気風という意味で、人間や動物の特徴と道徳的な性質の両方を指す
17世紀イギリスでエソロジストというと、人間の様々な特徴を舞台で表現した俳優のこと
19世紀のエソロジーは性質を形作る科学を意味した
初期の動物行動学は本能を重視して、生まれながらに身についている行動を示唆する傾向が会ったが、無論それ以外の要素の影響も考慮に入れていた
むしろ動物行動学最大の貢献は、刷り込みという学習プロセスの研究だったと言える 生まれたばかりのとき、理性は全くの白紙というよりも、入ってくる情報を種類別に取り込むスペース付きチェックリストと表現したほうがいいだろう
特定の年代に特定の事柄を学ぶ傾向は多くの動物に見られる
私達が生まれたときから持っているのは特定の言語ではなく、混沌とした情報を秩序だった言語体系に整理する能力
7歳までの子供はこの能力に極めて長けていて、周囲で話す言語のあれこれをスポンジのように吸収する
人間の道徳性も試行錯誤で学ぶには複雑するぎること、また多様性がありすぎて遺伝子にあらかじめプログラミングできない点で言語と共通している
新生児を殺すことを許す文化があれば、堕胎の是非を論じる文化もある
婚前交渉を認めないところもあれば、健全な性教育の一環として奨励しているところもある
道徳性の起源を探る生物学者の最大の過ちは、こうした多様性を無視し、倫理の原則は学習して身につけるものであることを軽んじてきたことにある
言語習得も同じ過程を経るので、言語能力と「道徳能力」を並列で考えていこう
私達は、特定の道徳体系の刷り込みを受ける
それはカモの刷り込みよりも何百倍も複雑だが、同じくらい効果的かつ永続的なプロセスである
むろんカモの場合と同じで、刷り込みがずれてしまうこともある
私の友人の女性は、少女時代を日本の強制収容所で過ごした。今彼女は密輸にたまらない快感を覚えるそうで、本人に言わせると、それは、食物をこっそり隠して褒められた子どもの頃の経験に起因しているという。
これよりもっと深刻な例はいくらでもあるが、多くは道徳性を培う敏感な時期に学んだ、あるいは学ばなかったことに原因を探ることができる
つまるところ道徳性は生物学的現象なのか、それとも文化的な現象なのか
この種の質問に明快な答えを出すことはできない
動物行動学者と行動学者の議論から何かを学んだとすれば、それは自然も環境因子もまだほんの一部しか解明されていないということ
環境の影響がどう出るかは、底を支える遺伝子の「基質」によって変わってくる
テネシー大学で飼われていた双頭奇形のヘビ
実際2つの頭は、餌のマウスやラットをめぐって争い、そのため獲物を飲み込むまでに何時間もかかった
これは全く不毛の争いだった
どちらの頭から入ろうと、行き先は同じ
しかし科学者たちは、どっちの頭が偉いかという主張をどうしてもしてしまう
動物行動学者とて例外ではない
さらに、まだ文学の世界には怪しげなジャンルが存在している
1907年に出版されたシートンの『十戒の自然史』を筆頭に、聖書を引用したタイトルがずらりと並び、種の生存には道徳原理の寄与がいかに大きいか訴えている その伝でいくと、法と宗教が同法を殺すのを禁じたのは、人類絶滅を防ぐためだったという
同じ種の動物同士は、戦っても殺し合うにはいたらないと当時は信じられていたから、この主張は筋が通っていた
だが今では、私達は「殺し合いをする唯一の生き物」でもなければ、もちろん「殺し合いをする唯一の類人猿」でもないことがわかっている
アーネム動物園のチンパンジーコロニーで、一頭の雄が権力とセックスをめぐってほかの二頭と争い、その戦いで性器をちぎられ、殺されたことがある
シートンをはじめとする作家たちは、理想と見なすに値する「正常で自然な」状態を、生物学者に指摘してもらいたいと考えているのだろう
だが、自然から倫理規範を引き出そうとするのは、とても危険なことだ
生物学者は物事の成り立ちを説明したり、場合によっては人間の性質を詳しく分析するかもしれないが、行動の典型的な形や頻度(「正常」かどうかを統計的な意味で判断する)と、行動の評価(道徳的な判断)のあいだには、確かな関連性などない
ローレンツでさえ、カモのつがいが死ぬまで貞操を貫くものではないことを知り、失望した時に混同の罠に陥りそうになった
物事の状態を表す「である」を、物事のあるべき姿を表す「であるべきだ」に移しかえることは不可能
私はこれまで道徳体系を扱った様々な著作に出会ってきたが、そのいずれも、著者はごく普通の論法で話を進め、神の存在を確かなものとし、人間の有り様について所見を述べている。ところが突然、「である」「でない」が影を潜め、あらゆることが「べきだ」「べきではない」で語られるようになって驚かされる。見た目では気づかないほどの変化だが、意味するところは重要である。「べきだ」「べきではない」は新しい関係や主張を表しているのだから、それについて所見を述べ、説明を加える必要がある。同時に、どうしてそれが新しいことなのか、まったく異なるところからどうしてその結論を引き出したのか、その理由も提示しなくてはならない。
倫理の問題をもっと上手く動物行動学に取り込むには、過去の試みに対する異議に注意を払う必要がある
人間の道徳性には合理的選択の要素があると哲学者は言い、心理学者は学習の要素を主張する
人類学者は普遍的な規則など仮にあったとしてもごくわずかだと言った
善悪の区別は、人間が社会にどうあってほしいかという期待に端を発する
それは特定の環境に置かれた人間同士の交渉から生まれたものであって、そのプロセスを内面化するために権利と義務の概念が作られた
道徳的かどうかの判断は我々人間がするのであって、自然淘汰がするのではない しかし人間の道徳性が無限に柔軟でないことも明らかだ
道徳性を発揮する手段や、その手段を行使する対象である根源的な欲望や欲求は、どちらも人間が意図して作ったものではない
生来の性向は道徳規範を形成していないかもしれないが、私達の意思決定には関わっている
そのため、種独自の傾向を強化する道徳規則もあれば、抑圧するものもあるが、いたずらに無視するような規則は存在しない
進化は道徳性に不可欠な条件をたくさん作り出してきた
社会規範を編み出して、それを遂行する性向、共感し同情できる能力、相互支援と公正の感覚、紛争解決のメカニズムなど
また進化は、人間という種に変えることのできない必要や欲求を植え付けた
こうした要素がどんなふうに組み合わさって、道徳の枠組みを作っているのか
それはまだほとんど解明されていないし、道徳性進化に関する今の理論は、答えのほんの一部に過ぎない
人間以外の動物では、道徳性のどんな部分が、どの程度現れているのだろう
また人間の社会は、物事があるがままだった状態から、どうやって「こうあるべきだ」という視座を持つようになったか